大判例

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福岡高等裁判所 昭和44年(う)163号 判決 1969年8月14日

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮六月に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

原審および当審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。

理由

検察官亀井義朗が陳述した控訴趣意は、記録に編綴の検察官大野正名義の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。

検察官の控訴趣意について。

所論は、原判決は被告人が本件事故当時適正速度である時速約五〇粁を超えた同六〇粁で走行して本件現場にさしかかつた点に過失を認めながらも、仮にこの場合右適正速度で運転していたとしても本件において被告人が被害者を人間であるかも知れぬと認識可能な可視距離はその制動距離内であるとの証明がないから、結局被告人に本件結果の発生についての責任を負わせることができないとして無罪を言渡した。しかし所論引用の関係証拠によれば、被告人が前方注視を厳にしていた限り約五〇米手前において被害者を一個の障害物として発見し得た筈であつて、かかる場合特に本件のように物の識別が困難な夜間においては、当然被告人は右発見と同時に速度を減じてその障害物が何であるか、殊にそれが人間ではないかを確かめ、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるものというべきであり、しかして被告人がこの注意義務をつくしておれば少くとも三〇米手前でそれが人間であることを識別し得た本件では、それまでの減速とあいまつて把手操作により容易に本件事故の発生を防止し得たものである。そしてこれは被告人が原判決説示の適正速度を遵守しておつたとすればより一層容易であつたといえるのであるから、原判決の如く時速五〇粁の制動距離内に右の如く人間と物との識別可能地点のあることをもつて直ちに被告人に結果発生の責任を負わすことができないとなすことはできず、この点において原判決には証拠の価値判断を誤つた結果判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認をおかした違法がある、というにある。

そこで考察するに、まず原裁判所で取調べた証拠によれば、被告人は自動車運転の業務に従事するもので、昭和四二年一二月二一日午後一一時三〇分ごろ、普通貨物自動車を運転し、長崎県南高来郡国見町方面から島原市方面へ向け時速約六〇粁で進行中、同郡有明町湯江甲二七五番地先道路上において折から酒に酔い道路中央附近に横臥していた前田満喜(当三七年)を約二二米手前に接近してはじめて障害物として発見し、とにかくこれとの衝突を避けるため、あわてて急停車の措置をとつたところスリップし、更に七、八米に近接してはじめてこれが人間であることに気付き無中で把手を右に切つたが間にあわず、自車前部を同人に衝突させ約一四米引ずつて停止し、よつて同人に左右肋骨連続骨折、骨盤骨折等の傷害を負わせ、翌二二日午前八時二〇分同郡国見町多比良乙一二二番地松本医院において同人を右傷害により死亡するに至らしめたことが認められる。

しかして、右事故が被告人の前方注視義務の懈怠に基づくものであるかどうかであるが、原裁判所で取り調べた証拠により認められる様に、本件事故当時は深夜で現場附近には照明がなく、更にアスファルト舗装道路が直前の降雨のため濡れて黒くなつており、そのうえ被害者は黒褐色の毛糸ジャンパーに黒ズボンという着衣で路上にうつぶせになつていたこと等、道路の見透しおよび被害者と路面との識別の困難さが存在したことを勘案しても本村愃昭の検察官に対する供述調書、鑑定人岩永光治の鑑定書、第一回実況見分調書および当審の検証の結果によつて認められる如く、被害者は体格栄養共に佳良な筋肉質の身長約1.76メートルの長身の男子であり、これが道路ほぼ中央にこれを横切るようにうつむけになつてくの字形に横たわつていたのであるから、<証拠>を総合して窺れる様に、この様な被害者を一個の障害物として、いわば人間としての要素を払拭した一つの物体としてみる限り、当時これをおそくとも約四八米手前から認識可能であり、また人間としてすなわち人体としては約二〇米手前において認識可能であつたと認めるのが相当である。右認定に反する本田広道の検察官に対する供述調書は同人の原審証人尋問調書に対比し措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠は本件記録上存在しない。

すると、この様に四八米手前において障害物としての発見認識が可能である以上、業務上自動車を運転する者としては右手前の地点において当然右発見認識をなすべきものと期待されるところ、問題は道路上にかかる障害物を発見した運転者は如何なる処置をとるべき法上の義務を負担するかということにある。按ずるに、そもそも道路は人車の往来するところであるから、ここを走行する自動車運転者は常時路上において人に致死傷を負わす危険を背負つているものとして可及的にかかる危険を現実化しないように配慮すべきであるとともに、道路を利用するものとして人車の自由な往来を妨げる結果を招来しないようにも配慮して運転すべきである。そしてこの配慮は本件のように進路上に正体不明の障害物を発見したような場合においては、その実体が何であるかを確かめ、その確認結果によつては直ちにこれとの接触や衝突を回避できるような処置を講じ得るような態勢をとつて進行すべき業務上の注意義務となるものと解すべきである。けだし正体不明の障害物がもし物であればこれと接触ないしは衝突した場合、一層往来の自由を阻害する結果を招来することがあり得るし、もしそれが人間であればこれとの接触等を当然回避すべきは多言を要しないことであるから、右注意義務を課することは運転者にとり何ら酷な要請とはいえず、むしろ前叙道路の安全および交通機関としての自動車の性質上これらを利用する者の当然負担すべき義務といえるからである。そして、このことはたとえ本件事故現場の如く、自動車の往来はときどきあるが通常皆無といつてよい程人通りのなくなる深夜の道路であつても同断であることは前叙説示からみて明らかであろう。

しからば本件において、被告人は被害者の手前約四八米において右注意義務を負担すべきであつたことになるが、つぎに被告人がその時点において右注意義務を履行しておれば本件結果を回避できたかどうかが検討されねばならない。第一回実況見分調書、原審証人江上伸裄、同本田広道の各尋問調書および被告人の司法警察員に対する第二回供述調書ならびに検察官に対する供述調書によると、被害者は道路中央に前叙のように横臥していたため、その頭頂から北側路肩までの約2.9米の路幅が被告人の進路上に残存し、他方足から南側路肩までの約三米の路幅が対向車線上に残存しておつたので、約1.5米の車幅を有した被告人運転の自動車は右各残存路上を充分進行する余地が存在したこと、および事故当時対向車はなく被害者は全く運動できない状態であつたことが認められるのであるから、これらの状況を前提とすれば、被告人が原判決説示と同一の理由によつて肯認される本件事故当時の適正速度時速約五〇キロを遵守しておりさえすれば、また被害者の手前約四八米でこれを正体不明の障害物として発見し、直ちに前叙注意義務に従い右障害物を注視しながら、減速進行しておりさえすれば、前叙本件被害者を人間として識別可能な距離約二〇米手前における速度を、その後被害者の手前で停車するかあるいはこれを回避して前叙残存路上を進行し、もつて結果の発生を充分防止できる処置のとれる程度のものに減速でき得た筈である。このことは原判決説示のとおり右適正速度での制動距離が四八米以内であること、ならびに被告人の直前に同所を右適正速度以内で通過した吉田信博や本田広道が、いずれも被害者との衝突を回避していること等によつても肯認できるのである。

してみると、前叙のように被害者を二二米手前に発見し直ちに急ブレーキをかけたが及ばず発生した本件事故は、被告人が本件道路の事故当時の状態に不適当な時速約六〇粁の高速度で、しかも前方注視を怠つて走行したことに基因して惹起したものというべく、しかしてこの前方注視義務不履行の過失を認定せず、被告人に無罪を言渡した原判決にはこの点において判決に影響を及ぼす事実の誤認があるものといわざるを得ない。論旨は理由がある。

そこで刑事訴訟法三九七条一項により原判決を破棄し、更に同法四〇〇条但書により自ら判決することとする。

(罪となるべき事実)

被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四二年一二月二一日午後一一時三〇分ごろ、普通貨物自動車(長崎四に六一三九号)を運転し、長崎県南高来郡国見町方面から島原市方面へ向け、時速約六〇粁で進行し、同郡有明町湯江甲二七五番地先道路上に差しかかつたが、同所附近は街路灯等の設備もなく、また直前の降雨のため路面が湿潤していたのであるから、かような場合、自動車運転者としては、道路の見透し状況に応じて適宜減速するとともに、自車前方に対する注視を厳にしてその安全を確認しながら進行し、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにかかわらず、これをいずれも怠り漫然前記速度のまま進行した過失により、折から酒に酔つて右道路中央附近に横臥していた前田満喜(当三七年)を約二二米に接近するまで発見することができず、そのため発見と同時に急制動をかけたが、その後これを人間と気付いてから衝突を回避するだけの処置をとるゆとりもなく、自車前部を同人に衝突させたうえ約一四米引きずり、よつて同人に対し左右肋骨連続骨折、骨盤骨折等の傷害を負わせ、翌二二日午前八時二〇分頃同郡国見町多比良乙一二二番地松本医院において、同人を右傷害により死亡するに至らしめたものである。

(証拠の標目)<略>

(法令の適用)

被告人の判示所為は、行為時においては昭和四三年法律六一号による改正前の刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に裁判時においては同改正後の刑法二一一条前段罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があつたときにあたるから刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その刑期範囲内で被告人を禁錮六月に処し、情状に照らし刑法二五条一項により本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用につき刑事訴訟法一八一条一項本文により原審および当審のそれを全部被告人の負担とすることとする。

よつて主文のとおり判決する。(岡林次郎 池田良兼)(山本茂は転補につき署名押印できない)。

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